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2026-07-21 16:33:52 UTC

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今は昔、にょろがわといふものありけり。

月の石に「次回入居、予約済み」と告げられてより、にょろがわは昼夜を分かたず水を飲み、道行く電柱を疑ひ、満月を見るたび雨戸を閉ざして暮らしけり。

ある日の夕暮れ、にょろがわ、川辺にて水筒を洗ひをりしに、子どもら数人、ひとつの白きものを囲みて、棒にてつつきをりたり。

にょろがわ近寄りて見れば、それは亀にはあらず。

古びたる便器なりけり。

便器には目と口とがあり、子どもらにつつかるるたび、

「やめ給へ」

「陶器は割れやすきものぞ」

「そこは排水口なれば、棒を入るるな」

などと悲しげに訴へたり。

にょろがわ、これを哀れと思ひ、子どもらを追ひ払ひて言へり。

「便器が口を利くとは、世も末なり」

便器、涙を流さんばかりにして答へたり。

「助けてくださり、かたじけなし。お礼に、我が住まひへ案内いたさむ」

にょろがわ、首を振りたり。

「断る」

「まだ何も申してをらぬ」

「便器の住まひなど、およそ行き先が知れてをる」

「我が住まひは、海の底にある腎宮城なり」

にょろがわ、その名を聞くや、三歩退きたり。

「腎の字を使ふ場所に、良き思ひ出なし」

便器は言へり。

「腎宮城には、尿路結石を二度と寄せつけぬ秘薬あり」

にょろがわ、足を止めたり。

「二度と、とな」

「さやう。石どもが月より押し寄せようとも、恐るるに足らず」

「まことか」

「便器は嘘を流さぬ」

にょろがわ、しばし考へたり。

家に帰り、おにょろに相談すれば必ず止めらるると思ひ、そのまま便器の蓋にまたがりたり。

便器は、

「しっかりつかまり給へ」

と言ふや、川へ飛び込みたり。

にょろがわ、叫びたり。

「せめて便座を下ろしてからにせよ」

便器は流れに乗り、川を下り、海へ出で、やがて渦巻く水の中へ沈みたり。

にょろがわ、息の続かぬことを心配したれども、便器の周りには不思議なる空気の泡あり、水中にても息をすること叶ひたり。

海の底には、珊瑚の門、真珠の柱、貝殻の屋根あり。

その中央に、白く輝く大きなる城ありけり。

門には金文字にて、

「腎宮城」

と書かれたり。

その下には小さく、

「泌尿器関係者以外立入禁止」

とも書かれたり。

にょろがわ、便器に尋ねたり。

「我は関係者に入るか」

「深く関係してをる」

門をくぐれば、鯛や平目に代はりて、腎臓、膀胱、尿管などが舞ひ踊りたり。

左右の尿管は細き袖を振り、

「流れよ、流れよ」

と歌ひ、膀胱は腹を膨らませて太鼓を打ちたり。

にょろがわ、これを見て顔をしかめたり。

「見てをるだけで落ち着かぬ宴なり」

やがて奥より、きらびやかなる衣をまとひし姫、現れたり。

名を尿姫といふ。

尿姫、にょろがわの前に座し、にこやかに言へり。

「よくぞ参られました、にょろがわ殿」

にょろがわ、驚きて問ふ。

「我を知り給ふか」

「月の石どもの間にて、そなたの名を知らぬ者なし」

「悪名か」

「人気の宿として」

にょろがわ、帰らむとしたり。

されど尿姫、袖を上げて止めたり。

「待ち給へ。そなたを救ふため、ここへ招きしなり」

「救ふとは」

「月の石どもは、次の満月に大軍を送り込まむとしてをる」

「やはり予約はまことなりしか」

「さやう。その数、八万四千」

にょろがわ、気を失ひかけたり。

「我ひとりに入る数ではなからう」

「順番待ちなり」

「なお悪し」

尿姫は小さき瓶を取り出したり。

瓶の中には、透き通る水が一滴だけ入ってをる。

「これは腎宮城に伝はる秘薬、清流の雫なり。これを飲めば、石はそなたを宿とすること叶はず」

にょろがわ、両手を差し出したり。

「今すぐ飲ませ給へ」

尿姫、瓶を引きたり。

「ただし、ひとつ約束あり」

「水を毎日飲めといふなら、すでに飲んでをる」

「地上へ戻りし後、七日の間、決して月を見上げてはならぬ」

「たやすきこと」

「また、この玉手箱を決して開けてはならぬ」

尿姫は、白き小箱を差し出したり。

にょろがわ、箱を見つめて言へり。

「なぜ渡す。開けてはならぬものは、渡さぬが一番なり」

「昔より、さう決まりてをる」

「不合理な決まりなり」

「物語ゆゑ」

にょろがわは秘薬を飲み、腎宮城にて三日の宴を楽しみたり。

されど、膀胱の太鼓が鳴るたび厠へ行きたくなり、尿管の舞を見るたび脇腹が痛む心地して、つひに地上へ帰ることにしたり。

尿姫は別れ際、重ねて言へり。

「七日の間、月を見てはなりませぬ。玉手箱も開けてはなりませぬ」

「心得たり」

「まことに」

「我はかつて、石の痛みに三日三晩耐へし男ぞ。この程度の我慢、何ほどのことあらむ」

便器にまたがり地上へ戻れば、川辺の景色は変はらず、家も昔のままなりけり。

にょろがわ、安心して帰宅したるに、おにょろ、箒を持ちて待ち構へたり。

「三日も姿を消して、どこへ行き給ひし」

「腎宮城へ」

「また妙なることを」

「便器に乗りて」

「ますます妙なり」

にょろがわは腎宮城のこと、尿姫のこと、月の石の大軍のことを語りたり。

おにょろ、しばし黙りて聞きし後、

「して、その箱は何ぞ」

と問へり。

「開けてはならぬ玉手箱なり」

「ならば捨て給へ」

「昔より、さうはならぬ」

一日目、にょろがわは雨戸を閉ざし、月を見ずに過ごしたり。

二日目も、三日目も、何事もなし。

四日目、外より町人の声聞こえたり。

「今宵の月は、まことに美しきことよ」

にょろがわ、耳を塞ぎたり。

五日目、屋根の上より、

からから。

と石の転がる音がしたり。

されど、にょろがわは外を見ず、水を飲みて耐へたり。

六日目の夜、玉手箱の中より声がしたり。

「にょろがわ殿」

にょろがわ、箱から離れたり。

「聞こえぬ」

「にょろがわ殿」

「我は留守なり」

「月の使ひにございます」

にょろがわ、布団をかぶりたり。

箱はなおも言ふ。

「少しだけ開けてくだされ」

「ならぬ」

「蓋を指一本ほど」

「ならぬ」

「中には金銀財宝あり」

「石ではあるまいな」

箱、黙りたり。

にょろがわ、疑ひ深く尋ねたり。

「なぜ黙る」

箱、答へたり。

「石もまた、月においては宝なり」

にょろがわ、箱を庭へ投げ捨てむとしたり。

そのとき、雲の切れ間より満月の光が差し込み、庭を照らしたり。

にょろがわ、うっかり月を見上げたり。

「あ」

月面に、無数の黒き点あり。

よく見れば、それらは石の軍勢なり。

石ども、月より一斉に飛び立ち、流れ星のごとく地上へ降り始めたり。

にょろがわ、慌てて玉手箱を抱へ、

「尿姫よ、助け給へ」

と叫びたり。

されど箱は閉ぢたままなり。

にょろがわ、迷ひたり。

開けてはならぬ。

されど、開けねば石の大軍が来る。

おにょろは横より言へり。

「どうせ開けるのであらう」

「物語ゆゑ」

にょろがわ、つひに箱の蓋を開けたり。

たちまち白き煙、もくもくと立ちのぼりたり。

にょろがわ、

「老人になる」

と身構へたり。

されど髪は白くならず、腰も曲がらず。

代はりに煙の中より、細かき白き粉が大量に噴き出し、にょろがわの全身に降りかかりたり。

手も足も顔も、みるみる硬くなり、つひには全身、石のごとく固まりたり。

おにょろ、指にて額を叩けば、

こん。

とよき音したり。

「つひに自ら石となり給へり」

にょろがわ、口のみわづかに動かして言へり。

「これは何の罰ぞ」

そのとき、箱の底より尿姫の声が聞こえたり。

「その粉は、月の石を追ひ払ふ石灰の粉なり。されど人にかかれば、一時、石となる」

「先に言ひ給へ」

「開けるなと申したり」

空より降り来たりし石の大軍は、石となりたるにょろがわを見るや、歓声を上げたり。

「にょろがわ殿が仲間になられた」

「月へ迎へ奉れ」

「大いなる石として祀らむ」

石どもは、固まりしにょろがわを担ぎ上げ、月へ運ばむとしたり。

おにょろ、箒を振り回して石どもを追ひ払い、大声で叫びたり。

「これは石にあらず。水を飲み忘れたる愚か者ぞ」

されど石ども聞かず。

そのとき、川より白き便器が飛び出してきたり。

「にょろがわ殿を流してはならぬ」

便器は大口を開け、石どもを次々と吸ひ込みたり。

ごぼごぼ。

ざああ。

石どもは水とともに排水口へ流され、腎宮城へ送り返されにけり。

最後の一つが流されながら叫びたり。

「次の予約を取り直すぞ」

にょろがわ、固まりながら答へたり。

「永久に満室なり」

やがて七日目の朝となれば、にょろがわの体は元に戻りたり。

髪も黒く、腰も曲がらず、されど全身に白き粉が残り、しばらく石像のごとき姿なりけり。

おにょろは雑巾にて顔を拭きながら言へり。

「これに懲りて、開けてはならぬ箱は開けぬことなり」

にょろがわ、深くうなづきたり。

「されど、箱より声がすれば気になるものぞ」

「ならば耳を貸さぬこと」

「月も見ぬこと」

「雨戸も閉めること」

「水も飲むこと」

かくて、にょろがわは朝夕の水に加へ、満月の夜には風呂場へこもることを習ひとしたり。

されど、その後しばらくして、腎宮城より一通の手紙が届きたり。

そこには、かく書かれてありけり。

「先日の石八万四千個、すべて返品されました。置き場所がありませんので、再配送いたします」

にょろがわは手紙を読み終へると、黙って便器の蓋を閉め、その上に重き石を置きたり。

おにょろ、それを見て言へり。

「石を置いて、石を防ぐとは妙なこと」

にょろがわ、遠き目をして答へたり。

「敵を知り、石をもって石を制す」

されど夜半、便器の中より、

からり。

と音がしたり。

まことに、流したるものは、いつか巡りて戻るものなり。

となむ語り伝へたる。