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今は昔、にょろがわといふものありけり。
月の石に「次回入居、予約済み」と告げられてより、にょろがわは昼夜を分かたず水を飲み、道行く電柱を疑ひ、満月を見るたび雨戸を閉ざして暮らしけり。
ある日の夕暮れ、にょろがわ、川辺にて水筒を洗ひをりしに、子どもら数人、ひとつの白きものを囲みて、棒にてつつきをりたり。
にょろがわ近寄りて見れば、それは亀にはあらず。
古びたる便器なりけり。
便器には目と口とがあり、子どもらにつつかるるたび、
「やめ給へ」
「陶器は割れやすきものぞ」
「そこは排水口なれば、棒を入るるな」
などと悲しげに訴へたり。
にょろがわ、これを哀れと思ひ、子どもらを追ひ払ひて言へり。
「便器が口を利くとは、世も末なり」
便器、涙を流さんばかりにして答へたり。
「助けてくださり、かたじけなし。お礼に、我が住まひへ案内いたさむ」
にょろがわ、首を振りたり。
「断る」
「まだ何も申してをらぬ」
「便器の住まひなど、およそ行き先が知れてをる」
「我が住まひは、海の底にある腎宮城なり」
にょろがわ、その名を聞くや、三歩退きたり。
「腎の字を使ふ場所に、良き思ひ出なし」
便器は言へり。
「腎宮城には、尿路結石を二度と寄せつけぬ秘薬あり」
にょろがわ、足を止めたり。
「二度と、とな」
「さやう。石どもが月より押し寄せようとも、恐るるに足らず」
「まことか」
「便器は嘘を流さぬ」
にょろがわ、しばし考へたり。
家に帰り、おにょろに相談すれば必ず止めらるると思ひ、そのまま便器の蓋にまたがりたり。
便器は、
「しっかりつかまり給へ」
と言ふや、川へ飛び込みたり。
にょろがわ、叫びたり。
「せめて便座を下ろしてからにせよ」
便器は流れに乗り、川を下り、海へ出で、やがて渦巻く水の中へ沈みたり。
にょろがわ、息の続かぬことを心配したれども、便器の周りには不思議なる空気の泡あり、水中にても息をすること叶ひたり。
海の底には、珊瑚の門、真珠の柱、貝殻の屋根あり。
その中央に、白く輝く大きなる城ありけり。
門には金文字にて、
「腎宮城」
と書かれたり。
その下には小さく、
「泌尿器関係者以外立入禁止」
とも書かれたり。
にょろがわ、便器に尋ねたり。
「我は関係者に入るか」
「深く関係してをる」
門をくぐれば、鯛や平目に代はりて、腎臓、膀胱、尿管などが舞ひ踊りたり。
左右の尿管は細き袖を振り、
「流れよ、流れよ」
と歌ひ、膀胱は腹を膨らませて太鼓を打ちたり。
にょろがわ、これを見て顔をしかめたり。
「見てをるだけで落ち着かぬ宴なり」
やがて奥より、きらびやかなる衣をまとひし姫、現れたり。
名を尿姫といふ。
尿姫、にょろがわの前に座し、にこやかに言へり。
「よくぞ参られました、にょろがわ殿」
にょろがわ、驚きて問ふ。
「我を知り給ふか」
「月の石どもの間にて、そなたの名を知らぬ者なし」
「悪名か」
「人気の宿として」
にょろがわ、帰らむとしたり。
されど尿姫、袖を上げて止めたり。
「待ち給へ。そなたを救ふため、ここへ招きしなり」
「救ふとは」
「月の石どもは、次の満月に大軍を送り込まむとしてをる」
「やはり予約はまことなりしか」
「さやう。その数、八万四千」
にょろがわ、気を失ひかけたり。
「我ひとりに入る数ではなからう」
「順番待ちなり」
「なお悪し」
尿姫は小さき瓶を取り出したり。
瓶の中には、透き通る水が一滴だけ入ってをる。
「これは腎宮城に伝はる秘薬、清流の雫なり。これを飲めば、石はそなたを宿とすること叶はず」
にょろがわ、両手を差し出したり。
「今すぐ飲ませ給へ」
尿姫、瓶を引きたり。
「ただし、ひとつ約束あり」
「水を毎日飲めといふなら、すでに飲んでをる」
「地上へ戻りし後、七日の間、決して月を見上げてはならぬ」
「たやすきこと」
「また、この玉手箱を決して開けてはならぬ」
尿姫は、白き小箱を差し出したり。
にょろがわ、箱を見つめて言へり。
「なぜ渡す。開けてはならぬものは、渡さぬが一番なり」
「昔より、さう決まりてをる」
「不合理な決まりなり」
「物語ゆゑ」
にょろがわは秘薬を飲み、腎宮城にて三日の宴を楽しみたり。
されど、膀胱の太鼓が鳴るたび厠へ行きたくなり、尿管の舞を見るたび脇腹が痛む心地して、つひに地上へ帰ることにしたり。
尿姫は別れ際、重ねて言へり。
「七日の間、月を見てはなりませぬ。玉手箱も開けてはなりませぬ」
「心得たり」
「まことに」
「我はかつて、石の痛みに三日三晩耐へし男ぞ。この程度の我慢、何ほどのことあらむ」
便器にまたがり地上へ戻れば、川辺の景色は変はらず、家も昔のままなりけり。
にょろがわ、安心して帰宅したるに、おにょろ、箒を持ちて待ち構へたり。
「三日も姿を消して、どこへ行き給ひし」
「腎宮城へ」
「また妙なることを」
「便器に乗りて」
「ますます妙なり」
にょろがわは腎宮城のこと、尿姫のこと、月の石の大軍のことを語りたり。
おにょろ、しばし黙りて聞きし後、
「して、その箱は何ぞ」
と問へり。
「開けてはならぬ玉手箱なり」
「ならば捨て給へ」
「昔より、さうはならぬ」
一日目、にょろがわは雨戸を閉ざし、月を見ずに過ごしたり。
二日目も、三日目も、何事もなし。
四日目、外より町人の声聞こえたり。
「今宵の月は、まことに美しきことよ」
にょろがわ、耳を塞ぎたり。
五日目、屋根の上より、
からから。
と石の転がる音がしたり。
されど、にょろがわは外を見ず、水を飲みて耐へたり。
六日目の夜、玉手箱の中より声がしたり。
「にょろがわ殿」
にょろがわ、箱から離れたり。
「聞こえぬ」
「にょろがわ殿」
「我は留守なり」
「月の使ひにございます」
にょろがわ、布団をかぶりたり。
箱はなおも言ふ。
「少しだけ開けてくだされ」
「ならぬ」
「蓋を指一本ほど」
「ならぬ」
「中には金銀財宝あり」
「石ではあるまいな」
箱、黙りたり。
にょろがわ、疑ひ深く尋ねたり。
「なぜ黙る」
箱、答へたり。
「石もまた、月においては宝なり」
にょろがわ、箱を庭へ投げ捨てむとしたり。
そのとき、雲の切れ間より満月の光が差し込み、庭を照らしたり。
にょろがわ、うっかり月を見上げたり。
「あ」
月面に、無数の黒き点あり。
よく見れば、それらは石の軍勢なり。
石ども、月より一斉に飛び立ち、流れ星のごとく地上へ降り始めたり。
にょろがわ、慌てて玉手箱を抱へ、
「尿姫よ、助け給へ」
と叫びたり。
されど箱は閉ぢたままなり。
にょろがわ、迷ひたり。
開けてはならぬ。
されど、開けねば石の大軍が来る。
おにょろは横より言へり。
「どうせ開けるのであらう」
「物語ゆゑ」
にょろがわ、つひに箱の蓋を開けたり。
たちまち白き煙、もくもくと立ちのぼりたり。
にょろがわ、
「老人になる」
と身構へたり。
されど髪は白くならず、腰も曲がらず。
代はりに煙の中より、細かき白き粉が大量に噴き出し、にょろがわの全身に降りかかりたり。
手も足も顔も、みるみる硬くなり、つひには全身、石のごとく固まりたり。
おにょろ、指にて額を叩けば、
こん。
とよき音したり。
「つひに自ら石となり給へり」
にょろがわ、口のみわづかに動かして言へり。
「これは何の罰ぞ」
そのとき、箱の底より尿姫の声が聞こえたり。
「その粉は、月の石を追ひ払ふ石灰の粉なり。されど人にかかれば、一時、石となる」
「先に言ひ給へ」
「開けるなと申したり」
空より降り来たりし石の大軍は、石となりたるにょろがわを見るや、歓声を上げたり。
「にょろがわ殿が仲間になられた」
「月へ迎へ奉れ」
「大いなる石として祀らむ」
石どもは、固まりしにょろがわを担ぎ上げ、月へ運ばむとしたり。
おにょろ、箒を振り回して石どもを追ひ払い、大声で叫びたり。
「これは石にあらず。水を飲み忘れたる愚か者ぞ」
されど石ども聞かず。
そのとき、川より白き便器が飛び出してきたり。
「にょろがわ殿を流してはならぬ」
便器は大口を開け、石どもを次々と吸ひ込みたり。
ごぼごぼ。
ざああ。
石どもは水とともに排水口へ流され、腎宮城へ送り返されにけり。
最後の一つが流されながら叫びたり。
「次の予約を取り直すぞ」
にょろがわ、固まりながら答へたり。
「永久に満室なり」
やがて七日目の朝となれば、にょろがわの体は元に戻りたり。
髪も黒く、腰も曲がらず、されど全身に白き粉が残り、しばらく石像のごとき姿なりけり。
おにょろは雑巾にて顔を拭きながら言へり。
「これに懲りて、開けてはならぬ箱は開けぬことなり」
にょろがわ、深くうなづきたり。
「されど、箱より声がすれば気になるものぞ」
「ならば耳を貸さぬこと」
「月も見ぬこと」
「雨戸も閉めること」
「水も飲むこと」
かくて、にょろがわは朝夕の水に加へ、満月の夜には風呂場へこもることを習ひとしたり。
されど、その後しばらくして、腎宮城より一通の手紙が届きたり。
そこには、かく書かれてありけり。
「先日の石八万四千個、すべて返品されました。置き場所がありませんので、再配送いたします」
にょろがわは手紙を読み終へると、黙って便器の蓋を閉め、その上に重き石を置きたり。
おにょろ、それを見て言へり。
「石を置いて、石を防ぐとは妙なこと」
にょろがわ、遠き目をして答へたり。
「敵を知り、石をもって石を制す」
されど夜半、便器の中より、
からり。
と音がしたり。
まことに、流したるものは、いつか巡りて戻るものなり。
となむ語り伝へたる。
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2026-07-21 16:33:52 UTCEvent JSON
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